在も土塁と堀の一部が残る富松城は、「細川両家記」などの文献資料により、とくに、
16世紀前半の細川家の家督争いにおいて、重要な役割を果たしたことがわかります。
しかし、これまでは富松城の規模・構造・築城時期などについては、あくまで推定の
域を出ないものでした。              

 1963年には、土塁の北側にあった土壇の調査(A地点)が行われ、土器や瓦が出土しました。
瓦が出土したことによって、この場所には中世の瓦葺の居館か寺院があったと推定されました。

 1991年から2000年にかけて、「富松城跡」と、北に隣接する「東富松遺跡B」で発掘調査4回と確認調査が行われ、富松城の規模・構造の一端を明らかにする遺構を見つけるとともに、遺構から出土した土器などの遺物から築城時期などについても新しい知見を得ました。

 まず、富松城の築城時期は、大規模な堀が掘られた15世紀前半頃であると考えられます。
 これは富松城が史料に現れる15世紀後半より半世紀も古いことになります。
 この堀からは、15世紀前半から16世紀後半までの遺物が出土しており、約200年という長い期間にわたり堀として機能していました。
 また、掘立柱建物などの遺構から出土した遺物の中には、それより古い時期のものもあり、築城以前にも集落があったことがわかりました。

 なお、この堀が埋められ富松城が廃城になった後の遺構や遺物も見つかっていますが、江戸時代のはじめ頃には農地や宅地になったと思われます。




A地点から出土した軒丸瓦と軒平瓦
1963年に土塁北側にあった土壇から出土した軒丸瓦(左)、軒平瓦(右)
B地点の堀東富松遺跡B(B地点の堀)

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