1. |
従来、いわゆる埋蔵文化財包蔵地(遺跡)としての富松城跡は、現存する土塁を城の北西隅とし、東西約100m、南北約100mの「方1町」のプランをもち、周囲に堀と土塁をめぐらした城館と考えていました。
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2. |
1991年に行ったB・C地点(東富松遺跡B第3・5次調査)で、約90mにわたる東西方向の堀が見つかりました。
この堀は、幅が広く、また深く掘られていることから、生活用の排水溝ではなく、軍事上の防御の役目をもつ「堀」で富松城の北を限る堀と考えました。
これにより富松城の範囲は、従来のプランより北と東に約50m広がったことになります。 |
3. |
1994年に行ったD地点(富松城跡第3次調査)では、幅約11mの規模をもつ南北方向の堀が見つかりました。2000年に行ったE地点(富松城跡第10次調査)では、この堀は直角に東へ折れ曲がっていることが確認されました。さらに、2003年のF地点(富松城跡第14次調査)では、この堀は土塁の内側の堀であることが確認されました。 |
4. |
富松城は堀と土塁によって防御されていた城と推測されていましたが、2003年に行ったF地点(富松城跡第14次調査)では、土塁の内側の堀とともに土塁の外側の堀が見つかったことにより二重三重の防御施設をもった城であったと推定されます。 |
5. |
富松城は、文献資料から15世紀後半には築城され、16世紀前半に軍事拠点として活用された後に廃城になったと考えられていました。とことが、堀の下層から出土した遺物から15世紀前半には本格的な堀が掘られて城館として整備がなされたことがわかりました。
また、堀が埋められた後の掘られた遺構の出土遺物から16世紀末頃に廃城になったと考えられます。 |
6. |
富松城は、15世紀後半を境にしてT期、U期に分けられますが、遺構・遺物の大半はT期に属し、富松城が史料に頻繁に出てくるU期の遺構・遺物は少なく今後の調査成果が期待されます。 |
7. |
出土した土器は、D・E地点では供膳用の椀・皿が大部分で、煮沸・調理・貯蔵用の羽釜・擂鉢・甕は少ないことから、城の中心施設に近い場所と考えられます。
一方、B・C地点では羽釜・擂鉢などが多く、椀・皿が少ないことから、調理の機能をもつ台所が設けられていた場所である可能性も考えられます。 |