平成14年11月28日 (木) から12月 1日 (日)まで開催した「見直そう尼崎の宝・中世の富松城展」の3日目、11月30日(土)の午後3時から、井上眞理子さん(尼崎探訪家、イラストレーター)が描いた「富松城と富松の原風景イラストマップ」の前で、「富松の原風景をめぐるお話し会」を開催しました。
出演は、井上眞理子さんと川口宏海さん(大手前大学教授、中世・近世考古学)。司会進行役はまちづくり委員会の本田良生と井上多美子がつとめました。
ここでは、そのお話し会の様子を紹介します。

(司会者) 本日は皆様ようこそご参加くださいました。ただいまより富松城と富松の原風景を語るお話会を始めます。講師のお二人をご紹介します。イラストレーターであり尼崎の探訪家でもあります井上眞理子さん。そして、中世・近世の歴史がご専門の大手前大学教授の川口宏海先生です。
 はじめに、お二人からそれぞれこの原風景を探るにあたってお話いただきます。そのあとご質問や富松の原風景についてご発言ください。

井上眞理子さん

 富松にはすでに「ひとめぐりマップ」が刊行され、立派なものがありますのに、なぜまた又、マップなのかと言うと、富松の昔の原風景がわかるような地図を作ることで、富松城がより見えてくるのではないかと思ったのです。実はこの地図はまだ完成品ではありません。皆さんの思い出とか記憶を書いていただいて、さらに、完成させていこうと思っています。
 念頭においた時代は大正の末期から昭和の初めです。そのわりに、道路の道意線や七松線が描いてありますが、目安として描いておきました。昭和初期のころの時代にこだわるのは、年配の方の記憶が残っていて、いろいろなことを思い出していただけそうだったからです。そういう時代には、江戸時代の匂いや、手がかりが、残っているのではないかと思うのです。
 参考にしたのは、江戸時代の絵図や明治の地籍図、あと昭和28年の航空写真などです。昭和28年の富松村の様子は、江戸時代や明治の頃とほとんど変わっていないことがわかりました。また、イラストを描いていて面白いなと思ったのは、水路が張り巡らされていることと、昔の雰囲気の残る道があるということです。富松城があった中世の時代とまではいかないでも、江戸時代の原風景なんかが、辿れそうだなと思いました。
 一番の手掛かりは、「道」と「水路」ではないかなという印象をもちました。富松城については、あとで、川口先生に詳しく話していただきますが、富松城の遺構として現在残っているのは、この土塁と堀の場所だけです。ですが、発掘調査などでわかっておりますように、方1町よりもう少し大きかったのではないかと思います。
 円受寺の前住職さんも、郷土史の研究から、『尼崎市史』でいう方1町説よりもう少し大きかったのではないかと言われています。そういった話以外にも、富松の村自体が城のような機能、砦のような役割をしていたのではないかと、今年(平成14年)6月8日のシンポジュウムの時に、仁木宏先生が話しておられました。富松神社・円受寺・庄屋の塩田さんの家あたりには、水路が張り巡らされ、砦というか城館のような役目をしていて、そのうえ、築城の過程が違う二つのお城があったと考えられるというお話でした。そういう役目をしていたということも、水路を辿っていくことではっきりしてくるのではないかと思います。
 今、水路はだいぶ消えていますが、マップでたどることで、さらに多くのことが見えてきます。年配の地元の方が、昭和30年頃まで「この辺で洗濯が出来た」「きれいな水路がまだ残っていた」などとお話を聞かせてくださいました。立体図でも大きな溝がありますけれども、塩田さんの家の横の溝(堀)は牛川と呼ばれていて、「田んぼで汚れた牛を洗っていた」そうです。水路の太さと、証言された樋口さんの記憶が合います。
 皆さんの記憶とか言い伝えで、このマップを完成したいと思います。「お城で町つくり」ということですが、子ども達にも城跡をどういう風にしていって欲しいという希望とか将来の姿を書いていただいています。皆さんの力で、意義あるマップを完成させていけたらいいなと思っております。

川口宏海先生

 地元の方が、自分たちの富松の村をこの絵からさらに細かく自分自身でさかのぼっていって、「昔はこうだった」と完成していただいたらいいのではないでしょうか。
 富松城については、まだまだわからないことがたくさんあります。15世紀、
1400年代には「富松城」という名前が出てくるんですが、それが本当にここにあった富松城なのか、まだ、これから研究していかなければなりません。考古学では、15世紀、1400年代の出土遺物はたくさん出てくるのですが、実際に戦いのあった、文献に出てくる、1500年・1520年・1530年あたり、16世紀の初めの出土品が少ないのです。皆さん、「何でやろ」と思いませんでしたか。文献に出てくる、戦いが頻繁に行われている時代には、富松城の周辺には、人の住んでいる痕跡が少ない。私も不思議に思っています。(学芸員の)2人は、「こうですよ」と話して終わったのですが、この不思議をどう解釈するのかということを皆さんと一緒に、色々と考えていかなければいけないと思っています。
 富松城跡周辺の発掘調査では、15世紀、1400年代からの出土物が多くなります。それ以前、室町時代初めの14世紀、さらにそれ以前、鎌倉時代の12世紀〜13世紀に何があったのかということですが、それもよくわかっていません。文献と考古学の両面から、まだまだ検討していかなければなりません。もう一つ、富松の村を復元する方法として、今あるものから新しいものをはずしていって、どんどんさかのぼっていくという研究の方法があります。そちらに、仁木先生の説を元にして作られた模型があります。シンポジュウムの時に仁木先生が航空写真とか地籍図、江戸時代の絵図を手掛かりにして、江戸時代より以前の富松城の在った時代の富松の姿を、このように考えてはどうであろうかと提案をいただいたのが、そこにある模型です。井上眞理子さんのイラストでも、基本的には大正・昭和の頃の富松の様子が描かれています。
 言い伝えは、古文書などには出てきませんし、考古学の発掘でもわかりません。皆さんが記憶され、語り継がれたことが、意外に大事になってきたりします。それを「マップ」に活かしていったらいいのです。わからないことがたくさんあって、皆さんと一緒に考えていけたらいいなと思っています。文献が専門の先生も、これから研究していただけるでしょうし、考古学の発掘調査もこれからさらに進むと思います。
 実は、この展示を準備する時に一番問題になったのは、富松城はどんな姿だったのだろうかということです。みんなが一番知りたいことです。最初は、四角い範囲の城(方形館)だったという説がありました。次に新人物往来社から出された『日本城郭大系』などに載っている城調査の時の研究成果では、現在の水路を取り入れながら、少し新しい説が出されました。さらに、現在の発掘調査では、新たに堀が出てきて、今までの考え方を、ふたたび改めないといけないという状況に至っています。皆さんにわかり易いように展示をするには、どんなお城の姿を示したらいいかという問題がありました。結論を言うとわからない。しかし、いずれ、何年後か、土塁を残すことができて、さらに研究が進めば、本当の富松城の姿がわかってくると思います。

質問 1

 富松の地名の由来などはわかりますか?

川口宏海先生

 当地の、富松の歴史を研究されている田中 勇さんは、「ゆたかな松」つまりたくさん松があったからではないかという説を言われています。文献史料では、平安時代に富松の名が出てきます。平安時代の終わりには、この地域が富松と呼ばれていたということがわかっています。それ以前、どういう風に呼ばれていたのか、由来はどうなのか、楞野さん、何かご存じですか。

楞野

 地名については、これという正解は無く、想像を膨らませるしかないようです。

川口宏海先生

 これも、謎の一つかもしれません。

質問 2

 私たちが思うお城とは、石垣と天守閣を思い浮かべますが、富松城の土塁のお城というのは、どんなお城なのでしょうか?

川口宏海先生

 一般に、大坂城のように立派な石垣や白い壁で瓦葺の天守閣、そういう城になるのは信長が築いた安土城が最初です。1570年頃以降、江戸時代に入る少し前です。富松のお城はそれよりずっと古いのです。
 室町時代の城は、武士の館が少しずつ発達してできたもので、石垣を持たない城です。周りに堀をめぐらして、その内に土塁を作り、その中に館を建てるのです。安土城ができて、石垣造りのお城ができるのですが、その頃も関東に行くと土造りのお城が一般的です。東北に行くと江戸時代になっても、石垣の無い城が結構あったようです。皆さんは、関西に住んでいますが、関西のお城は先進的なお城が多かった。皆さんは大坂城というイメージがあるのですが、少し古くさかのぼりますと、富松城のようなお城のほうが多かったのです。

質問 3

 他の町を見に行った時などに、専門家の方はどんな所から見るのでしょうか?

川口宏海先生

 まず、城を見に行きます。土塁を見ます。城の専門家の山上雅弘さんが作成されたパネル(関西周辺の土塁遺構)が展示されていますが、それを見ていただくと、土塁の大きさから城の格がわかります。どれだけ多くの人が城を造ったのかという点に関わってくるので、非常に重要な要素です。守護の城と、それ以外の一般土豪の館とに分けて展示されています。守護は、一つの国を治めるのですから立派な城館を造っています。
 こちらの富松城もかなり土塁が大きくて、基底幅約10m・高さ約4m、長さは今、残っているだけでも50m位あり、かなり大きい規模です。文献の方からも話がありましたが、ここは前線の基地にあたるお城です。伊丹城とか、越水城などより少し小さいかも知れませんが、けっして、本当に小さい一般の館ではないということがわかります。
 土塁からいろいろなことがわかるのです。富松城跡の土塁の周辺では、道が屈曲しているのですが、まだ、正体がわかりません。この道はもっと新しい時代のものかも知れませんが、もし古い時代のものだとすれば、この道は、わざと曲げているのではないかと考えられるのです。なぜかと言いますと、戦略上まっすぐ道が繋がっていると、そのまま攻めてくる恐れがあるので、「アテマゲ」と言って、わざと曲げることがあるのです。実は、これによく似た場所がこの辺(樋口明氏宅前)にもあります。南の吹田街道から入ってくる、富松のメインストリートです。そこ(樋口明氏宅前)が壁になります。これも、いつ頃できたのかわかりませんが、おそらく、防御のための施設、アテマゲだと思われます。

質問 4

 今、先生は富松城の土塁の規模がかなり大きいと言われましたが、室町時代の富松城は、守護のお城とみたらよいのでしょうか? それとも土豪の館と理解したらよいのでしょうか?

川口宏海先生

 先ほどお話したように、富松城跡の土塁はかなり大きく、守護の城館に近いものと言えます。しかし、富松城に守護が住んだという記録はありません。ただ、最前線の重要な拠点であったことは、文献資料からも読みとれます。そのような点から考えると、居住者は、土豪クラスであっても単なる土豪の城館ではなく、重要な拠点を防御する目的で築かれた、特別な土豪の城館ではないかと、私は考えています。

質問 5

 土塁の高さが4mと言われましたが、それは現在の高さですか?

川口宏海先生

 そうです。若干、低いですけれども、ほぼ4mあります。

質問 6

 当時どれぐらいの高さがあったでしょうか?

川口宏海先生

 さぁ、これは難しいですね。ただし、自然現象の雨や風などで7,80cm〜1m位は削られているのではないでしょうか?
 伊丹城の土塁なんかも、かなり痩せております。プラス3mとまでは考えられませんが、ある程度は高かったのではないでしょうか。

質問 7

 模型のうえで、微高地になっているのは、湿地帯と2m位の高さの比高差をもった台地なのですか?

川口宏海先生

 比高差はどれぐらいでしょうか。高さはどうですか? 1mほどの段差があったのではないでしょうか?

質問 8

 伊丹くらいですか?

川口宏海先生

 伊丹ほど大きくはないでしょう。

質問 9

 実際歩いてみると、今はほとんどわからないです。たぶん当時はこの模型にあるように、湿地帯と島状になっていたと思うんですけど。どうでしょうか?

川口宏海先生

 私も、何回か歩いたんです。場所によって、若干違うのですが、1m位は段差があったのではないかと思います。

質問 10

 お願いがあるのです。できればマップの方に、点線で、昔の地形図のようなものを入れてもらえたら、見て回るにもわかりやすいと思います。もしくは、点線で透けた水路の紙をネットのように被せたらどうでしょうか。

川口宏海先生

 そうですね。まだ未完成なので、透けた用紙を一枚上から掛けてみると、比較しながら歩けますね。

井上眞理子さん

 マップの上から水路が薄い紙で載るようにするといいですね。

質問 11

 『尼崎市史』からとった図では、城は方100mで、だいたい四角くなっていましたが、今残っている土塁がそのようだったのでしょうか?

川口宏海先生

 最初の説としては、方一町の規模で、真四角の土塁が周るお城(方形館)ではないかと考えられておりました。現在は、本当にそうだろうか?と言われています。一般的に考えれば、今、おっしゃった様な姿が最初の姿であろうと考えられますが、これから、岡田さんたち(尼崎市教育委員会、歴博・文化財担当学芸員)が発掘調査をなさって、本当の姿がでてくると思います。方一町の真四角の土塁がめぐっていたか、あるいは違うのか、それがわかるのではないかと、楽しみです。岡田さんどうですか?そのような方一町の真四角の土塁の姿があったのでしょうか?

岡田 務先生

 それが疑問ですね。

質問 12

 その土(土塁構築土)を、どこから持ってきたのでしょうか?

岡田 務先生

 堀を掘りますので。

質問 13

 堀を掘っても、それだけの土は、出てこないと思うのですけど。

岡田 務先生

 堀は道路ぐらいの幅はあるので、充分いけます。

川口宏海先生

 逆に、土塁を築きたい分だけ堀を掘るのです。その分、高ければ高いほど堀は大きくなります。基本的な考えとしては、堀を掘って、土塁を造る。それでなければ、どこかの土を持ってくるのでしょう。昔のことですから、それほど大規模なことはできないと思います。伊丹の方にある砦のような場所では、最初から古墳を利用して上に砦を造る。古墳は最初から堀がありますから、堀を掘る必要がないので、それを利用するということも多いのです。しかし、通常の土塁はやはり、堀を掘ってその土を使ったと思います。

質問 14

 城というのは昔から、土から成るので城です。日本の歴史や城郭史を調べてもらうと、最初に土から造ったのが一番古いし価値があります。地元の方は、尼崎市のなかの城郭史をまず勉強した方がいいのではないでしょうか?年代ごとの城がありますからね。
 東富松と西富松が出てきますが、その境界はどの辺か特定できますか? わからないということで色々な想像ができ、ロマンがあって地元の方では楽しみです・・・。東富松、西富松というのは、文献上に名称が出てくる以上、現存したわけですが、どの辺に堀があったのか、それはいつ頃の堀であったのか、わかれば教えてほしい。堀を境にして城内であったか城外であったかということがわかる。同様に東と西とはどのように考えたらよいのでしょうか?

川口宏海先生

 結論から言うと、よくわからないんです。今、わかっていることは、現在こちらが東富松村です。西の方に西富松村があります。それが、文献に出てくる東富松、西富松にあたるのかどうか、それが第一点ですね。わからないけれども、その可能性が高いと、私たちは今、考えています。文献上、それぞれにお城があった。少なくとも、軍が駐留するような場所があったという記録も出ています。そうすると、東富松にお城が一つあって、西富松にも城のようなものがあって、それぞれ利用できたということです。今、西富松に土塁そのものが残っているような所はありません。そうすると、よくわからないのが現状です。
 仁木先生なんかは、この富松神社が、もう一つお城の役割を果たしていたのではないかと考えておられます。そうすると、東富松のなかの東と西という可能性も考えることもできます。それも一つの説ですね。これも、これから研究して行かなければいけないことです。

質問 15
 近世の大坂城に本丸があって二の丸、三の丸まであったように、富松城は東とか西とかいう風にわかれていたと考えたらよいのでしょうか。

川口宏海先生

 なるほど。本丸・二の丸・三の丸というお話ですが、鎌倉時代くらいの武士の館は今、お話がありましたように、真四角に土塁がぐるりと巡っている館が一つだけですね。それが、16世紀の戦国時代になりまして、     敵が攻めてくる、守らなければならないというので、館の周りに、またもう一つ外側に土塁や堀を造り、また、外側に土塁や堀を造り、だんだん大きくなっていく。それが、江戸時代には本丸・二の丸・三の丸と呼ばれるようになったのです。
 われわれ専門家の間では、富松城があった時代には、そんな言葉がないので主郭とか第二郭・第三郭と言っています。富松にそういうものがどこにあたるのかと言えば、結論から言えばよくわからないんですが、とりあえず土塁の内側が中心部分であろうと思います。岡田さんが言われたように、ここ(土塁南側)に堀があって、いろんな生活用具が見つかっています。しかも、高級なお茶碗などが見つかっている。そうすると、これも中心であって、江戸時代で言う本丸に近い。非常に重要な場所であります。こちらの現存している土塁の北側の発掘調査では井戸が発見され、生活を感じさせるような物が出土しています。これも中心から北側ですけれども、何か重要な部分にあたる可能性があります。
 この道(道意線)から西ではほとんど遺物は何も出てこない。そうすると、城跡の西の堀から西側は、お城とはあまり関係ない場所ということになって、城(土塁の内側)を中心として南側と北側に何かあったのではないか。外側には堀がありますから、少なくともこの範囲(北の堀)からこの範囲(南の富松飯店)をお城の部分として考えていいのではないでしょうか。これ(土塁の内側)は、本丸にあたる部分であろうと思いますが、この周辺はまだこれから、いろいろ研究していかなければなりません。
 土塁の西側の堀などは、南にどう延びていくのか? 井上眞理子さんの話にありましたように、(庄屋さんの家があった南側の)この辺に、江戸時代に大きな水路があった痕跡があります。お城は(今の土塁から少し南ぐらい)ここまであったかも知れないけど、村全体が要塞の姿をしているという可能性もあります。それも一つ、お城そのものではないけれども注目するポイントの一つです。
 どうでしょう。なんとなく大坂城のイメージとはちょっと違う、中世の村の姿が見えてきませんか。

質問 16

 このイラスト図を見れば見るほど、四つのお寺の問題が気になります。今の富松城を中心として、西の方を固め、出城的な役割としてお寺が富松神社を含めて配置され、東、南を固めた配置になっているのではないでしょうか。特に東南の角は攻めにくいようにずらしたりしている。もう一つは、割合に寺数とスペースも大きいし、更に古さもある。お寺のなかに、先祖伝来の伝記・記録があるように思う。西側の方にも何かあるようですから、これは仮説ですが、今の富松城址が中心で、周りをお寺などが護っていた。そういう一つのお城ではなかったかなと思うのですが、いかがでしょう?

川口宏海先生

 私も、同感です。このお寺というのは非常に重要なのです。円受寺さんは1580年頃、これを建てたのは荒木村重の家来で村重が没落して、この地元に戻ってお寺を建てたという話が伝えられています。戦乱の時代から、少し新しいのですけれど、ここの場所は非常に重要で、お寺が建つ前に何かあったかもしれません。こちらの真光寺さんは1451年、富松但馬守の名前が出てくるような時代にできたというような記録があります。
 確かにここ(真光寺)も、集落のちょうど入り口にありますから、意味のある感じがするのです。こちらの庄屋さんのお家の位置、こちらは大昌寺さんで端っこにあります。西運寺さんはど真ん中で天文年間以前の創建ということです。お寺というのは、何かあったときに軍隊が駐留できる広い場所で、しかも、周りには土塀など巡らして防備の役にも立つ。しかも、仁木先生の説では、ここ(円受寺)の南の水路が幅広くて、これも、興味深いなと思っています。最後は、岡田さんに発掘調査していただかないとわからないですけど、非常に興味がある。

質問 17

 文献で私が勉強したのは、楠木正成と新田義貞が、ずっと東にある常光寺城にいる足利尊氏の軍を攻めるためには、富松城が目の敵になって、攻める作戦が出ないので、大西村にありました大西の熊野神社に約半年ほど駐屯して、その時に瓦林城の方には、新田義貞。楠木正成は大西の熊野神社。それで合流するのが、現在あります生島神社。この辺で作戦を練ったあと約4〜5ヶ月あとで富松城を叩いて、一気に新田・楠木軍が、西からと南から常光寺を攻めたと勉強したのですが・・・。

川口宏海先生

 文献の先生に聞いた方がわかりやすいと思います。

楞野一裕先生

 今の話は、設定が違うようです。太平記には常光寺の話は出てきます。が、新田義貞とか足利尊氏よりもっと後のことで、2人とも亡くなった後のその子どもの世代の頃の南北朝の時代に、南朝方が、ある時、神崎から攻めて来まして、北朝方の軍勢が神崎川を挟んで対峙する。その時、南朝方の楠木・和田勢。この楠木がどの楠木かわかりませんが、北朝の神崎を攻めるとき三国の渡しを越えて昆陽と富松を焼き討ちするという話が太平記に出てきます。その時、北朝方の軍勢がどこにいたかというと、常光寺にいたということで、現在、浄光寺さんにその時の様子を描いた縁起の絵巻があります。その話が元になっているのではないでしょうか。それには確か、富松も出てきます。
 尊氏とか正成の話ですと、富松は関係しませんけれども、湊川合戦に行く途中に楠木正成が尼崎から手紙を出した記録もありますが、残念ながら、それには富松は絡んでこない。この2つが一緒になっているかと思います。

川口宏海先生

 1362年の尼崎の合戦、このあたりがその話の舞台となったことは、話していただいた通りですけれど、この時、富松にお城があったかどうか、よくわからない。わからないけれどもそういう軍勢が進んできた地名として出てくるのです。

質問 18

 村の形成から見て、西富松、東富松の村そのものに時代的なずれがあると考えられますか?

川口宏海先生

 ある可能性がある。先ほど、お寺の古文書があるのではというお話がありましたが、出てくれば嬉しいなと思いますが、なかなか富松の村のなかの姿、内情を示すようなものが残っていないのです。言い伝えなどで残っているものがあれば、逆に教えてもらいたいと思います。不思議なのですけれど、東富松のまん中に谷がありまして、富松神社がその両側のど真ん中に位置しています。きっと、何か意味があるのではないでしょうか?

質問 19

 甲山の神呪寺に陣を張った方が勝っていたというのには、地理的な理由がありますか?

川口宏海先生

 先ほど楞野さんが話された、越水城から攻めてきたというお話ですね。実は、この時の記録を見ますと、不意打ちだったようです。富松城につめている武将に対して朝駆け、朝一番に不意打ちで襲い掛かってきたので、慌てふためいて旗色が悪くなったらしい。向こうから攻めてきたら、必ず負けたかというとそうではない。
 実は、当時の戦いは意外に原始的な戦いをしていたのです。今の近代戦は隊列を整えて戦うイメージがありますが、その当時の軍隊そのものが寄せ集めなんですね。偉いさんが、恩賞を餌に寄せ集めて、手柄を焦って先駆けをする者がいる。そういうことで、不意打ちをくらって、富松城は一回落城寸前までいく。しかし、必ず負けたというわけではない。
 ちなみに、その当時の戦いにはいろいろあって、戦いの前にお互いに口喧嘩をする。それで勝った、負けたという。その次に、弓矢を交える。飛び道具を先に出す。傷ついた、戦いで死んだというと、よく頑張ったという証拠になります。うちの家来は矢傷で重症をおったとか、死んだという届けを大将に出すと、これだけうちの人間が傷つき頑張った。そうすると大将のほうから、ご褒美に具体的には土地をもらったり、お金をもらったりしている。弓矢で傷ついた人が多い。私たちは、武士が白刃を煌めかせて敵陣に突入していくというイメージがありますが、富松城の古い時代にはそれは少ないのではないでしょうか。とりあえず、弓矢で戦う、最後の最後に槍などで戦う。槍で突くのではなく、はたくように戦っていた。石つぶてが有効な武器になっていた。石で怪我をした。きっと皆さんがタイムスリップしてその当時の戦いを見たら、おもしろいことをやっていると思う。NHKなどで馬が何騎も揃って戦っているのは、嘘ではないかと思います。確かに、大将は馬に乗って行きますが、その馬を曳いている家来がいます。その後ろに、鎧をしまう入れ物を持って歩いている人もいます。展示してありますその復元図のところに、額に入った絵がありますでしょう。富松のお城に駆けつける武士の姿がイラストで描かれていますが、そんな様子なのです。
 太平記なんかに二万余騎が集まったとか、こちらの方は、一万五千騎だったと書いてありますが、ちょっとこれも疑問なんですね。太平記というのは、かなり誇張して書いてありますから、本当に二万もおったら、たいしたものです。昔は食料をどうするかというと、織田信長や秀吉は、自分たちで食料を調達できるようにしていた。しかし、これは例外で、もともと戦国時代の軍隊というのは、そんなに補給というのはやっていないんです。行く先々で村を荒らして盗ったりして確保するのです。戦いもある時点でこう着状態になったら、お互いに本拠地に引き上げるということも結構あるんですね。補給が続かないわけです。その時その時で戦いをするんですね。その当時の戦いというのは、読んでいるとおもしろい。そんなに、死者もでていないのです。何十人という単位の死者はありますけど、何千人という死者はまずないですね。

〈進行〉

 いろいろありがとうございました。時間もずいぶん長くなってしまって、私井上多美子たち町づくり委員会としましては、ここにお母さんたちが、「昔は、水が綺麗で蛍がいて、蜆が取れたんだよ」というふうに書いてくれています。それは取り返しようがないので富松のお城だけは、なんとか力を合わせて残していきたいなと思っております。ありがとうございました。

川口宏海先生

 本当に皆さん、ありがとうございました。地元の方が一生懸命おやりになった展示会です。もちろん、今日、お話いただいた市の教育委員会の方々も一生懸命やってくださって、私自身こんなに立派な展示会ができるとは思っておりませんでした。皆さんのお力ですね。それだけ、あの土塁を残したいという気持ちが強いということを、皆さん是非感じていただいて、ご協力いただいたらと思います。皆さん、よろしくお願いします。
(おわり)